愛される恐怖

 

自ら愛することを恐れるなと言いますが、

自ら愛してその愛を拒否される怖さよりも、

私が愛することで嫌悪感を

感じてしまうのではないかという

恐れが強いのだと思った。

 

私は愛されることが怖いことに気が付いた。

なぜなんだろう。

愛されることは支配されることのように感じるのである。

愛する者の目は私の知られたくない部分を知ろうとすると思うととても耐えられない。

つまり、私はそうやって人を愛しているのだ、きっと。

知られたくない部分を暴くように愛しているのかもしれない。

そんな視線を向けたら相手だってさぞ嫌だろう。

 

と、自己嫌悪からの投影かと思ったけど、

向けられた視線への怖さは純粋に根底にあるとも思った。

 

幼い頃に向けられた視線。

逃げられなかった。

怖かった。

異性とは恐ろしいものだと思った。

化け物だと思った。

殺されると思った。

全て悪い夢ならよかったのに。

最近またトラウマが蘇るようになった。

背筋が凍る。

どうしたらいいんだろう。

 

あんなものは愛ではないと思えばいいのだろうか。

愛でたまったものか。

 

私はあんな視線を向けたりしない。

人間を壊すような一方的な気持ちは愛ではない。

恐怖で身動きできない人間を支配するものではない。

私は分別をつけられる。

私の愛は人を尊重するものだ。

 

世の中にはそれが出来ない人が案外多い。

一方的に自分の感情をぶつけてしまう人間があまりにも多い。

好きだけでなく、嫌い、怒りも含め。

吐き気がする。

お前はそれで嬉しいのかもしれないが、

楽しいのかもしれないが、

体格、年齢、地位など抗えない要素を

突き立てて一方的に詰め寄るのは

傲慢だ。

非常に狡猾。最低。

 

自分の感情だけ高ぶらせていたいなら

偶像を崇拝していてくれ。

 

きっと愛とはそんなものではない。

対象に死の恐怖を与えて

自らの快楽をなすりつけるものではない。

 

 

本当の愛を得られたら

愛の意味を知れるけど

その前にニセモノと間違えて

受け取るの拒否しそうだから

本当の意味を知れたら
それを得られるものだと思おう。

 

私は他人を尊重する愛を持つことができるし

きっと世の中にはそういう人がたくさんいるし

きっと会えると信じている。

私が見てこなかっただけかもしれない。

 

ほんと

なんで

私の名前は愛なんだろう、